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たわわなわたし2

童貞の鋭き指にふさもげば葡萄のみどりしたたるばかり(春日井健)
May 15

朝の読書

 朝、読書の時間ができた。

 早起きしてカフェのモーニングセットを食べながら仕事の一部をするのが日課となっていたが、その仕事がようやく落ち着き、時間だけ浮いた。

 最近読んでいるのは、この前にも書いた、「イカの哲学」と、「言葉の海へ」という本。後者は、「言海」という有名な辞書を編纂した大槻文彦の生涯を描いたものだ。友人に勧められ読んでいたのだが、なかなか進まない。本のなかのストーリーも、回想をする形で展開するので、なんだかもどかしい。でも、ようやく第5章が終わりそうで、残り三分の一ぐらいになった。

 今日、友人の女性の先生が、外国人クラスで「日本人の男はどうですか」というアンケートをとったところ、「つまらない」という答えが多かったそうだ。なんか、身をつまされる思い。このブログも、もう少しなんとかしたい。

May 14

おぼれそうな思考

 寒い日が続いている。3月下旬並みの寒さらしい。

 そんなことはおかまいなしに、スポーツクラブへ行って、泳いだ。

 泳いだ、といっても、ほとんど、水中ウォーキングだ。体を慣らすために、まずストレッチしながらプールを歩き、その後500メートルほど泳ぐ。久しぶりに泳ぐので、筋肉痛が怖くてあまりたくさん泳げない。徐々に伸ばしていこう。それからまたウォーキング。

 歩きながら、いろいろなことを考えた。勤務先の学校で今担当しているクラスのこと、お昼のロシア料理の後に出てきたロシアンティーのこと、そこから連想したアイリッシュコーヒーのこと、今読んでいる「イカの哲学」という本のこと、これは、大量のイカに囲まれて、実存的な思考に行き着く特攻隊の生き残り→シベリア抑留→日本に帰国した後アメリカのスタンフォード大に留学した哲学者の話で、結構面白かった、それから、中央競馬の栗東トレーニングセンターでのプール調教、坂路調教のこと、この2つの設備のおかげで関西の厩舎の競走馬が強くなったそうだ。

 泳ぐのは昔から好きだ。自由に体を動かせるのだが、水の抵抗がある。水の中では、誰の力も借りることができない。完全に一人になれる。

 海で泳ぐと、何ともいえない怖さが頭の片隅にある。でも、空と海と一体になったような心地よさ。完全に一人でありながら、世界のすべてと繋がっているいるような感覚―――

 電車を降りて家まで帰る道のりは、水の抵抗がない分、足が軽やかだった。

May 12

言はで思ふぞ言ふにまされる

 今は昔、磐手郡(いはてのこほり)から帝へ鷹が献上された。帝はその鷹をいたく気に入り、献上された土地の名前をとって、「いはて」と名付けた。ある日、鷹匠がその鷹を不注意で逃がしてしまった。帝が大のお気に入りであることを知っていたその鷹匠は、来る日も来る日も探したが見つからず、正直に「いはて」を失ったことを奏上した。帝は、鷹匠を責めたりせず、ただ一言、「いはでおもふぞいふにまされる」と歌った。

 この話は、大和物語にある話の一つである。「いはで思ふぞ言ふにまされる」。「いはて」には、もちろん、鳥の名と「言はで」が掛けられている。

 私はこの言葉が大好きだ。言わない思いのほうが、口に出す気持より優っている。でも、口に出せず気持ちを伝えないことはつらいことが多い。

 私は結構、言葉を溜める性質だ。少々角が立っても言った方がいいことが言えないことが多い。この間もこんなことがあった。つまらない話なのだが、同僚と近くで飲みに行こう、ということになり、ある先輩の一人が、その先輩の大好きな店の名前を挙げた。その店はみんなが好きな中華料理の店で、最近はみんなでそこへ行くことがなかった。しかし、実は私はその次の日、別のメンバーと一緒に行く予定にしていて、予約も入れていた。もう店の近くまで来ていたので、結局、事情を言えないまま、お店に入った。その後は・・・。

 はっきり人に自分の気持ちを伝えられず、仲違いしてしまうこともときどきある。人間関係の修復がうまくない。言わない方が思いは大きいが、相手にとっては負担になるかも。口に出したほうがすっきりする。気持ちも人間関係も。

 「いはでおもふぞいふにまされる」という言葉は、言葉にならない言葉になっているところがいいのだ。思いがまさっている、ということを、言葉で説明している。思いを伝える、その伝え方が大切だ。一つ間違うと、ただ思いをぶつけているだけになってしまう。

 父や母へどんな思いを伝えればいいのだろう。

May 07

モンテーニュ通りのカフェ

 「モンテーニュ通りのカフェ」というタイトルの映画を見た。渋谷の文化村近く、ユーロスペースという映画館だ。

 そこで、もう一つ、邦画で、「パークアンドラブホテル」というタイトルにも魅かれたのだが、せっかく見るなら違和感が大きいほうがいい、と思って、例の如く邦画を避けた。

 たまたま出会った映画だが、これが近年にないぐらい大きな満足を得た映画だった。いかにものフランス映画なのだが、見た後も爽やかな、重すぎず、パトリスルコントのように軽やかでテンポがよく、それでいて人生をいろいろ考えさせてくれて、しかも、じわっと深みも出てくる、そんな映画だ。こういうのを本当のエスプリというのかもしれない。

 あらかじめ、私は映画に関しては素人ということを断って、ざっと感想を述べたい。おばあちゃん子のジェシカという一人の若い女性が主人公。田舎から上京した彼女は、凱旋門近く、エッフェルタワーがよく見える劇場前のカフェで働き始める。そこでいろいろな人物と邂逅する。テレビで活躍中だが映画に出て一流に見られたい女優。盛装をしてコンサートを行うことに嫌気がさし、クラシックをもっと多くの人に身近に感じてほしいからこの職業をやめたいと思っているピアニスト、絵画などの骨董品を集めるのが唯一の趣味だったが一度に全部手放す決心をした老人、などである。

 基本的にはコメディらしかったが、現代フランスをシニカルに捉えているらしきセリフがいくつかあり、理解できない笑いもあった。でも、単に笑うのではなく、それぞれの人物の人生をしっかりと描いているところが面白い。ジェシカは一流の人物と出会うのだが、それぞれ深い悩みを抱えている。ピアニストは、収入が少なくなってもいいから、病院や刑務所の慰問のためのコンサートを行なっていきたいと思っているが、奥さんは音楽の夢を夫に託し、マネージメントを続けてきたので、夫の考え方に理解を示さず、仲がこじれかけている。ピアニストは奥さんを愛しているが、自分の生き方をコントロールされることにはうんざりしていた。

 そういったそれぞれの生き方が、ジェシカという素直な女性を通して浮かび上がっていく。それほど深刻でもなく。それがなんともいえず面白い。それらの人生がジェシカを中心に絡み合い、ある一日を迎える。ピアニストのコンサート、女優の舞台初日、老人の収集品のオークション、それらがカフェの前の劇場で一斉に始まるのである。

 その他にも、カフェの主人やもうすぐ定年を迎える劇場の管理人の女性なども彩りを添える。

 いろいろ面白いシーンはあったが、映画を見た後反芻しながら気がついたある場面があった。上に挙げた女優は映画に出ることを夢見ていて、ある日憧れのアメリカ人監督とカフェでばったり会う。その女優は監督に話しかけるが、監督の過去の作品を間違えたり最新作を知らなかったりして、悪い印象を与えてしまう。次の日、もう一度監督と彼女が会い、監督が次回作の構想を語る。彼女はその監督の次回作に出たくて、一生懸命話に食らいつく。そのシーンが面白かった。監督は、サルトルとボーボワールの物語を描こうとしているらしいのだが、アメリカ人監督は二人の愛を深遠でベールに包まれた尊いもの、というイメージを述べる。すると、彼女ははっきりそれを否定し、セックスを求めていただけなのだ、と身も蓋もない言い方でまくしたてる。

 その部分だけみると、女優の話しているアイディアの方が魅力的で、アメリカ人監督も、最初は驚きつつだんだん引き込まれていく。しかし、その女優は作品もよく知らないアメリカ人監督にあこがれ、それを権威的に見ている。私の読みすぎかもしれないが、フランスとアメリカの関係をシニカルに捉えているようにも見えた。

 日本人インタビュアーがピアニストにインタビューしているシーンもピリリと皮肉が利いていた。日本人が改めて彼に発した質問が、「どんな動物が好きですか」。こんな質問ばかりしているイメージなのだろうか、日本人は。でも、妙に納得した。周りの日本人たちも笑っていた。

 

  なんか、だらだら長くなった。この映画はもう一度みてもいいと思う映画だ。まだまだ発見できていない意味があるような気がする。人生も、そんなもんか。

May 06

ヴラマンク展

 久しぶりに美術館へ行った。「東郷青児美術館」。頭に刺激を与えたかった。心に栄養を与えたかった。

 休みの日の割には空いていた。時間がお昼前だったせいだろうか。天気も悪くなりかけていた。

 ルノワール展なども魅かれたのだが、私はちょっとへそ曲がりで、いわゆる主流からずれたような画家が好みだ。印象派というよりは、そこから派生した人、のような感じだ。マティスとか、モディリアーニとか。ピカソのような、シュールレアリズムの走り、のようなのもいい。シャガール、ダリも好きだ。ロートレックとか、ミーシャも好き。

 今回のヴラマンクという人は、マティスらとともに「ファビズム」(野獣派)と呼ばれた一派の人らしい。私は全く知らない画家だったのだが、電車の吊り広告に出ていた、力強い線と色合いが気に入って、見に行く気になった。

 作品はとてもよかった。初期の作品は大胆な色使い、筆使いで、細かく書かないタイプなのだが、徐々に色合いが落ち着いてきて、後期になると、構図も筆さばきも繊細になっていく。近くで見ると、どう見ても無造作に筆を動かしているとしか思えないのだが、遠くから見ると、絵画全体に表情があふれている。特に、空の描き方と水面の描き方がよかった。空は、クリーム色だったり、雑に塗りたくっていたりするのだが、自己の内省の心象風景になっているようだった。川の水面は、なぜかいつも地上の建物や木々がきれいにうつらず、適当に色を置いているようにも見えるのだが、その部分がなぜか妙にリアルなのである。画家の目にはこんなふうに映っているのだな、と妙に納得させられる。

 晩年近くになると、はでな色使いがまた戻ってきたような作品があり、何ともいえない円熟味がある。うーん、すごい。

 心が少し、潤った気がした。でも、まだまだだ。何かが足りない。

May 05

私的言

 連休の後半も後半になろうとしている。

 歌舞伎に行くなど、ちょこちょこ予定は入れてあるが、基本的にゆっくりとした時間ができた。靴やかばん、財布を磨いたり、買い物をしたり・・・。自分の人生を見つめるまでには至っていない。

 たまに、自己啓発書の類を購入するのだが、後で冷静に読み直すと、なんて恥ずかしいものを買ったんだ、と自責の念に駆られる。本の整理をしつつ、その一冊をちょっと読みふけってしまった。「求心力 人を動かす10の鉄則」。こうやってタイトルをパソコンで打っているだけで恥ずかしい。齋藤孝が訳・解説を行なっている本で、ちょっと興味をひかれて買った。私は別に部下がいるわけでもなく、人がついて来なくて困っているわけでもない。

 その本の10の鉄則を改めて読み返していたのだが、あることに気づいた。それは、10の鉄則すべてに共通するのが、「相手をほめよ」ということだ、ということだ。相手を認める、相手を信頼する、そのことに尽きる。なんだか、ちょっと拍子抜けした。私が最近、教育の現場でテーマとしていることと同じではないか。でも一方で、ほめることがいかに難しいか、改めてわかった。こうやって、繰り返し手をかえ品をかえ、相手を褒めることが大事だ、といわなければならないほど、このことは大切なのだ。

 教育に携わっていると、学生に対してつい言いたくなる。「そこがよくないんだよ」「そこは、そうじゃなくてこうでしょ」。注意して直すことも、もちろん大切だ。というか、学生の未熟な面ばかりが気になって、ほめる言葉がなかなか出てこないのが普通である。

 ずっと前、仲がいい外国人学生と話していたとき、「先生は、いつも注意ばかりするから話しにくい」と言われた。こちらとしては、早く日本語がうまくなってほしくて、訂正をしていたつもりだった。自分としては、それほどたくさん注意しているとは思わなかった。そう言われてから、少しアプローチを変えてみた。意識していい点を見つけるようにした。メールをもらったときも、ちょっとしたことを見つけて、「日本語うまくなったね」というようにした。すると、本当に以前よりどんどん成長していくように思えた。

 そんな、目先の順調さばかり追い求めている。大きなビジョンが足りない。頭が疲れすぎている。もっと、生きている実感がほしい。(なんか、私小説的になってきている。)

April 29

スポーツクラブ

 思い切ってスポーツクラブに入会した。

 前から考えていたのだが、なかなか実現できなかった。というのは、仕事がいつも遅くなるので、夜に通えないのではなかろうか、という考えが捨てきれなかったからだ。

 しかし、人にはあまり言っていないが、健康状態があまりよくない。ここ2回の健康診断は悪くなっているし、最近、頭痛が治らず、また心臓がたまに苦しくなったりする。病気の一歩手前の状態だ。

 まず一番に挙げられるのは、やはり運動不足だ。全然運動していない。たまに、3駅ぐらい前の駅で降りて歩いたりするのだが、雨が降ったり遅い時間になったりで長続きしない。

 というわけで、ようやく決心した。連休中は仕事も少なくなるので通いやすいだろう。

 今日はプールを中心に活用した。

 まずは水中ウォーキング。ストレッチしながら、徐々に体を水に慣らしていく。25メートルプールを3往復して、いよいよ泳ぎのコースへ出る。今日は連休の谷間ということで、かなりすいていて、一人1レーン使える状態だった。ひとかき、ふたかき、みかき・・・。水をつかむようにしてクロールで進む。プールで泳ぐのは本当に久しぶりだ。

 50メートル泳いだところでとまった。久々だったので、腕の付け根(つまり肩)の回りが硬く、もう一度腕を回すストレッチをおこなった。再度泳ぐ。200メートルも泳ぐと息が切れ始めた。やはり運動不足のつけは大きい。

 その後、休み休みしながら結局500ほど泳ぎ、ジャグジーを楽しんだ。ミストサウナなども体験した。

 今日の筋肉痛はいつ出るのだろう。願わくば、学校へ出る30日までに出ますように。

April 13

愚かさという宝物

  くだらない話で やすらげるぼくらは

  その愚かさこそが 何よりの宝物    「愛のことば」song by spitz

 

 最近この歌詞がまたしみいる機会が増えた。

 年度の変わるこの季節はなぜかせつない日々で、人の出会いや別れがある。久しぶりに会う人もいる。

 

 私が日本語教師養成で担当している教壇実習クラスの人たちが3月末に修了し、みんな巣立っていった。と思ったら、なぜかその2週後にクラス会。こんなにまとまっているクラスは初めてだ。私も呼んでいただき、のこのこ出て行った。

 みんなそれぞれ、もういろいろな現場の苦労をしている。ある人は、韓国人サラリーマンを相手に悪戦苦闘。初級でよくある、こどもっぽい言い回しを指摘されるなど、現場ならではの苦労があったようだ。でも、そうやって、相手に合わせて授業をしていくことを覚えていくのだろう。ある人は、養成講座では見慣れないスーツを毎日着ている。年が若く学校に入りたてなので、教師としてなかなかみてもらえないそうだ。だから、形だけでも、ということらしい。

 みんな、学校にいたときは、教師である私と基本的に「おしゃべり」をすることはほとんどなかった。当り前のことだ。私は仕事中。向こうも、こちらにいろいろ遠慮している。でも、学校が終わってこうやって話す機会が持てるのは本当にうれしい。こうやって誘ってもらえるのもうれしい。こんなことなら、学校にいるとき、もう少しやさしくしておくべきだった、などと思ったりもする。

 冒頭の歌詞、前は、私にとって、学生時代の友達のありがたさ、と受け取っていた。社会人になると、人間関係が利害中心になるので、うちとけた話ができる人は学生時代の友達しかいないなあ、などと思っていた。でも、今の学校で教壇実習を担当すると、かなり密度の濃い関係ができ、それが続くと、こんないい財産ができるのだなあ、と今回しみじみ思った。

 この間は、3月に日本語クラスを卒業した、韓国人の女の子から連絡をもらった。直接日本語を教えたことはほとんどないが、なぜか私を慕ってくれて、今の様子を話に来たい、という。ありがたいことだ。

 このブログにも、素敵な方がコメントを下さり、ご自分の素晴らしいブログに私のブログのリンクをはってくださった。うれしいやら恥ずかしいやら。その方のブログはほぼ毎日更新されていて、いつも色鮮やかな写真と洒脱な文章をのせている。あれだけの質の高い文章と写真をあの頻度で続けるなんてすごすぎます。私の永遠の目標ですね。

 うちの学校は明日から新学期。新たな出会いが待っている。                               

April 09

collocation

この間の週末、歌舞伎の昼の部がいつもより早く終わったので、日本語教育専門書店Bを訪ねた。東銀座から約20分。麹町にある。

 話がいきなりそれるが、その日の歌舞伎はよかった。久しぶりに玉三郎を見た。当代の女形としては完全に抜きん出ている。オーラが違う。「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」という、長谷川伸脚本の近代歌舞伎で、お仲というささくれた女の役だったが、これがまた勘三郎と息がぴったりで、その掛け合いだけでも楽しめるのに、玉三郎の艶やかさと言ったら。今月の井上ひさし作の浮かれ心中は、チケットがとうとう手に入らなかった。夜の部は行けない。

 話が戻るが、Bで久しぶりにかなり本を買い込んだ。仕事がらみで、ここでは9掛けで本を買うことができると分かり、早速その特権を使ってみた。しかし、カウンターに新人らしき人しかおらず、私の名刺と顔だけでは割引が効かない雰囲気に。たまたま私と仕事のやり取りがある営業部の責任者がいて、何とか割り引きに成功した。周りにがめつい人間の印象を与えてしまったのは本当に恥ずかしかったが。

 その中に、辞書が2冊あったのだが、うち1冊はコロケーションの辞書だ。

 先週、卒業したばかりの、教師養成講座の修了生からメールで質問があった。「メールをうつ」というのは、どうして「うつ」という動詞を使うようになったのか、というものである。メールは「書く」ものであり、「うつ」という動詞を使うのはどうなのですか、携帯のような小さなものを指で「うつ」というのはおかしくないでしょうか、という疑問らしい。でも、携帯でメールを書いている様子は、まさに「うつ」=キーをたたく、という表現がぴったりくる。ちょっと古いが、タイプライターを打つ、とか、電報を打つ、という表現に似通う。

 広辞苑その他の辞書で、「打つ」の前に来る目的語にどんなものがあるか探してみた。慣用句的なものとしては、ピリオドを打つ、胸を打つ、などがあった。そんな作業をしているうちに、コロケーション辞典なるものに思い至り、うちに揃えておくことにした。

 以前調べたとき、確か日本語のコロケーション辞典が2つあったと思ったのだが、緑色の表紙の「知っておきたい 日本語コロケーション辞典」しか見つからなかった。この辞書は、たとえば、「胸」など目的語や主格語になる言葉をひき、それに続く述語がいろいろ載っている、という形式のものである。もう一つ、動詞や形容詞などの述語をひいて、そこに目的語となる言葉が収載されている、という形のものもあるはず、と思っていたら、なんとうちにすでにあった。「日本語表現活用辞典」というタイトルで、すぐにはコロケーション辞典と分からない。

 日本語教育では、そのときどきの学習者に合わせて例文を作り説明をするが、私はこの例文作りというのが苦手だ。だから私は、例文集の類の本をいっぱい抱えて、必要のある時はたくさんの中から選ぶようにしている。自分で1から作る、という面倒なことはしない。日本語の教師は、それらの例文からその文型の用法を自分で考え説明することがよくあるが、これは私にとっては最初、非常に大きな驚きだった。私にとっては、そういう文法のルールや言葉の意味というのは、まず辞書を確認することが第1の作業で、それらの比較検討から自分なりの意味を模索する。用例も、過去の文献からいろいろ探すのが通例だった。でも、日本語教師は、辞書にそれほど頼らず、あるときは、自分の教えやすさのために、あえて文法書の解説を無視して恣意的な教え方をすることもある。

 現代語を紐解くには、辞書に頼りすぎるのもよくない気がする。辞書に載っていない言葉の使い方がたくさんある。だが、せっかくの言葉の宝庫である辞書を活用しない、できないのもどうかと思う。辞書にはいろいろなタイプがあり、使い方によっては日本語教育にいろいろ応用できる。コロケーション辞典の使い方も、これを機にいろいろ考えてみたい。

April 06

中国名文選

 最近少し余裕ができた。読書の時間も少しずつ増えている。気候もいい。

 たまっていた新書の続きを読み始めた。今面白いのは、表題の「中国名文選」(興膳宏・岩波新書)。もともと漢文は好きだが、時間があまりないので、こういう解説付の読み物しか読めなくなってしまった。作者の興膳氏は、確かうちの大学で中国語を教えていたような気がする。

 いろいろな名文を紹介している。まだ読んでいる途中だが、面白かったのは、「荘子」だ。老荘思想などでその考え方に触れたことはあるが、胡蝶の夢など故事成語として知っているだけで、本の内容はよく知らなかった。でも、その紹介されたところを読んでみると、なかなかおもしろい。『論語』や『孟子』が現実的な話をまとめているのに対し、『荘子』では、ちょっとありえない架空の話が皮肉たっぷりに書かれているらしい。その架空の話の中には、「天は青青としているが、天からみたこの大地も同じように青く見えるのだろうか」などと、地球の色を知った現代からみるとどきっとするような想像をめぐらしていることもある。

 その中に、次のような話があった。水は、深くたたえられていなければ、大きな船をうかべることはできない。水たまりには小舟しかうかばない。鳳は、その羽根の下に風の層を厚くもたなければ、飛ぶことはできない。それをヒグラシと小バトがあざわらう。おれたちは小さな木に向かって全力で飛び上がるが、鳳はどうして9万里の向こうまで行ってしまうのか。

 最近の自分を振り返ると、目の前のことをこなすのに汲々としていて、全体について思いめぐらす時間がなくなっている。毎日やっていることも、積み重ねの一つ、大きなものの1部分としてとらえることで、初めて生きてくるのであり、単にこなすだけで考えなく終わると、小さいままで流れてしまう。小さな常識にとらわれて、大きな何かを成すことができない。

 他にもそれに類するたとえがあり、何か、気付かされること大だった。そのうち、いいテキストが見つかれば、原書に近い形で読んでみよう。

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