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    August 28

    愛を語る

      最近、私が勤めている**講座でいくつか新科目を担当することになった。そのうちの一つ、日本事情という科目を今日初めて担当した。
     この科目は、外国人に日本語を教える日本語クラスで、日本の事情をいろいろ教えるためのアドバイス的な授業だ。実際の日本語クラスでのいろいろな授業を紹介した後、私の昔の専門分野である短歌や俳句、そして連句の授業を紹介する。
     前々から準備を進めていて、自分の経験だけでなく、非常勤の先生に何度か参考意見を求め、授業を組み立て、今日初日を迎えたわけである。
     短歌や俳句、連句の授業のモデルを示す際、どうしても歌を声に出し、簡単な解説をする必要が出てくる。いわば、ちょっとした国語の授業だ。久々に短歌を解釈したり、自分の腰折れ作品を披露したりしたのだが、これが恥ずかしい。なぜだろう。妙に力が入り、熱弁する。しかも、内容は恋がテーマ。昔は何の気後れもなく『源氏物語』の恋について語っていたものだ。今の環境のなんと違うことか。久々に愛を語る授業は、緊張したが、わくわくし通しだった。
     連句については、みなさんにどこまで伝わったか分からない。少しでもいいから実践体験を加えるとよさそうだった。自分の作品を改めて読み直し、連句に熱を上げていた頃を思い出した。作品の内容としての愛、連句に対する私の愛、いろいろな愛を語った1日だった。
    August 23

    書きたいこととか

      書きたいことはいろいろあるのだが、何せ時間がない。
     最近、ブログを覗いて下さる人は、友人のレギュラーの方以外では、日本語教師関係の人、歌舞伎関係の人が多い。
     歌舞伎の感想を載せると、必ずチェックしている人がいるようだ。毎回一定数のアクセスがある。ああいうのがあると、本当に批評がつたなくて申し訳なく思う。
     日本語教師関係の人は、最近の日振協の大会でテーマになった「日本語教育スタンダード」というキーワードで検索している人が多い。ブログでこのテーマを私ほど詳しく書いている人間はいないだろう。この間の研究大会についての記事もぜひ書きたいのだが、なかなかまとめる時間がない。
     
     先週はウィークデーに半休を取り、「チームマダム」の人たちとお食事兼勉強会。新しい科目を担当するので、その予行演習をさせてもらった。いろいろアドバイスも受け、充実した会だった。ブログでも1度紹介したことがあるが、連句についての話もした。これについてもゆっくり語りたい。
     漢字について。一つは、今読んでいる本の話。地味に「漢文脈」というのがちょっとしたブームのようだ。現在の日本語の文の基礎を作ったのは、おおざっぱに言えば夏目漱石だが、その背景には、頼山陽の「日本外史」の訓読や日本漢詩があった。にもかかわらず、現在の教育システムから漢文は排除されようとしている。その漢字のことばの世界を見直そう、という動きがある。この関係の本を一気に3冊買ったが、3ヶ月たった今、まだ1冊が読み終わらない。「漢文脈と近代日本」「古典日本語の世界」「二重言語国家・日本」の3冊だ。早く読んで感想を書きたい。漢字のもう一つの話は、外国人への漢字の教え方の問題である。この間、ある日本語学校へ行ったら、漢字の部首を教える教材をいろいろ作り、成り立ちから分かりやすく教えていた。私もいろいろやっていたなあ。去年の今頃は。
     
     今週は久々に日本語を教えた。やっぱり楽しい。今も楽しくないわけではない。それなりに充実はしている。自分は何がしたいのだろうか。ちょっとすべてのことから立ち止まりたい。
     
    August 20

    歌舞伎の合間に

     こんなに忙しいのに、また歌舞伎に行った。
     今月は昼・夜の2部制ではなく、3部制になっている。夏休みなので、お客さんが来てくれる機会を増やそうということだろう。
     一部と2部は新作歌舞伎で、3部は古典歌舞伎だった。2部は女優の渡辺えり子演出の「舌きり雀」で、このチケットが発売早々に売り切れた。ぼやぼやしていた私はとうとう買い損ねてしまった。2月から歌舞伎座のすべての番組を見てきたのに、とても残念。ということで、今日は、一部と三部を見た。間が空くので、その時間は新宿へ出かけてちょっと本の買出しをしたり、明日のビジネスプライベートレッスンの授業準備をしたりしていた。
     
     今回は、よっぽどチケットを無駄にしようかとも思ったのだったが、行ってよかった。最近ずっと頭痛が治らず、今日もあまり調子がよくなかった。最初のうちは、歌舞伎を見ていても仕事のいろいろなことが頭をよぎり、なかなか集中できなかったのだが、だんだん歌舞伎に入り込んで、泣いた。最初の「磯異人館」という演目がとてもよかった。勘三郎の息子の勘太郎が主人公の役だったが、声といい演技といい、父親にすごく似てきた。幕末の薩摩での話で、薩摩切子の職人と、琉球王国から来た人質の若い女性との叶わぬ恋を描いた話だ。これが、よくできていた。ずっと薩摩弁だったり、外国人が出てきて外国訛りの日本語をしゃべったりなど、現代劇風のところもあった。次の一乗谷の新作は、踊りが中心で私には退屈だった。踊りを見ながら集中して寝たのが気持ちよかった。
     三部の古典歌舞伎は「裏表先代萩」。ふつうは「伽羅先代萩」なのだが、それを鶴屋南北がさらに改作したものらしく、珍しい上演とのこと。「先代」はほんとうは「仙台」のことで、伊達藩のお家騒動をもとに出来たのが「伽羅先代萩」である。伊達家のお家騒動をネタにした話がいくつかあり、それを集大成したらしい。昔は「作者」という概念が希薄で、あまり誰が作者かを、作者自身含めて気にしない。なぜなら、その作品はたいてい以前にあった話の翻案であり、全くのオリジナルを生み出すことはまれだ。たとえば「源氏物語」も、光源氏というかっこいい主人公のエピソードがいろいろあって、それをたまたま紫式部が集大成した、とする説が有力だ。平家物語も同様である。
     話が逸れたが、もともと「伽羅先代萩」という演目は、時代物といって、現代の話をそのまま上演するとお咎めを受けるから、時代を換えて設定しなおした脚本だ。時代物には、太平記の世界、平家の世界、平安前期の世界などいろいろあるが、先代萩は、太平記の世界である。「裏表先代萩」では、表で先代萩の時代物をやりつつ、裏で医者や長屋住まいのおやじなどが出てくる世話物(現代=江戸時代をそのまま描いた世界)も進行する、という体で話が進む、面白い構成だ。1つの演目で、世話物と時代物が交互に出てくるなんて初めてだ。
     そういえば、そこに出てくる「仁木弾正」という有名な悪役がいるのだが、同じ苗字の人が私の教える養成講座にいた。そのひとは「にき」と読むのだが、歌舞伎では「にっき(だんじょう)」と読む。本人に尋ねたら、昔は「にっき」と読んだが、今は「にき」と読まれることが多いので、家族会議の結果、「にき」にしたとのこと。
     
     やっぱり芝居はいい。浮世のいやなことを全部忘れられる。(ストレスがたまってるのかな。)
     
     
    August 13

    群青の夢

       ○○さんへ
    君の詩、受け取りました。いつもの君に比べると大胆に感じますが、まだまだ優等生的な感じは抜け切っていないんじゃない。深い悲しみがあるからこそ、無上の幸せがあるのです。そしてその感情の極みを冷徹な眼差しで見つめて描写できれば最高。いにしえの紫式部のようにね。
    ところで、スピッツの新曲「群青」は聴きましたか。まだだったら、これを見て。
    http://www.youtube.com/watch?v=ji-qqX4rlPw
    今回の歌詞は、なんとなく昔のスピッツを思い出させるのですが、これまでのクールな感じに比べ、どことなくぬくもりを覚えます。曲調も切なさより明るさを感じるんですよね。
    昔だったら、たとえばアルバム「ハチミツ」の中の「愛のことば」だったら、「君」という存在は、未来に絶望して現実を逃避する先にあるもので、非日常そのものであった(「限りある未来を 搾り取る日々から 抜け出そうと誘った 君の目に映る海」)んだけど、この「群青」ではちょっと雰囲気が違うね。「小さくなった誇り」みたいに自分をちっぽけな存在というところは昔と変わらないけど、そんな「僕」の希望の光が「君」で、暖かい場所のようだ。「君」という存在は、非日常というより、現実の癒しの場であり未来の希望を抱くところのようです。
    「僕はここにいる すでにもう奇跡 花が咲いているよ」の歌詞は、生きることの賛歌を歌い上げていて、「青い車」を思い出させます。そうか、あの歌も「青」だ。何かちょっと仏教的。
    今のところは以前と似ているけど、変わったなと感じたもう1点は、「しらんけど」「わけわからんて」のように、「~ない」の意味のところに「~ん」という方言を入れてきたところ。あれがけっこう気になります。今まで使ったことなかったのに、しらんぷりして入ってきましたよ。ちょっと本音っぽく感じます。全体的に。
    スピッツにとって、青い色ってなんなんだろうなあ。
    とにかく、この歌詞もいいから読んでください。
    http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02299
    また君の魔法のコトバを待っています。いつも励ましてくれてありがとう。
     
    藻思
    August 06

    多読、たどく、TADOKU

      最近、土日の勤務が続いていたが、今回は珍しく土日が休み。
     日曜は、本当は仕事が入っていたが、この研究会に参加するため、別の人と代わってもらった。
     
     「多読」
     多読というのは、第二言語を勉強するときの方法の一つだが、考え方としては、第二言語習得というより母語習得の考え方に近い。英語の多読、という話は、すでに酒井邦秀という電気通信大の教授が提唱していて、日本語の多読を提唱し始めたのは、彼の奥さんである粟野さんという方だ。彼女は某日本語学校で非常勤講師をしている。
     今日の研究会には酒井さんの講演もあったのだが、その時の彼の話を少し紹介したい。われわれの脳を樽に見立て、そこに言葉という水を満たしていく。しかし、従来の言語学習では、教科書が薄かったり説明に重点を置いていたりして、言葉の絶対量が足らない。多読することで樽を満たしていき、樽が一杯になると、言葉は自然にあふれ出す。それが多読の学習システムである。これは、言葉の大量のシャワーを浴びて説明なしに母語を習得していく赤ん坊の母語習得の形態に近い。
     この授業では、辞書は使わず、分からない単語をとばす、途中でやめてもよい、が原則だ。これで本当に大丈夫だろうか、とも思う。実効性を感じるのに時間がかかるらしい。まずは自分で体験することだろうか。それと、先生は本を持ってくるだけで、授業らしい授業を全くしない。本を読むに当たってのアドバイスをするだけだ。本は大量に持ってこなくてはいけない。生徒は好きな本だけ読む。つまらなくなったら途中でやめる。だから、いろいろな人の興味に対応できるよう、さまざまな本が必要だ。
     
     非常勤のO先生がこの多読研究会のメンバーで、その縁で今回出席することができた。
     語彙や文型のコントロールがなされた長めの読解教材がふえていくのはとてもいいことだ。しかし、授業として成立させるのは、さっき述べた本の確保の問題、学校側が授業として認めてくれるかどうかの問題、さまざまな問題がある。でも、一つの試みとして、本をたくさん読ませるというのは、とてもいいことだ。うちの学校でも何とかできないだろうか。
     
    August 04

    あつい!ボランティア講座

      今週のある日、横浜のT区役所から依頼を受けた派遣の仕事に出かけてきた。
     区とボランティア団体が主催する「日本語ボランティア養成講座」という講座の講師を、うちの学校が今年度全25回受け持っている。今週は文法の授業ということで、私は初めてこの講座の講師を担当した。
     
     自分の養成講座の受講生と違うのは、やはり理解度の差である。ボランティア養成講座の人たちは年齢層が高く、毎日勉強しているわけでもない。理解力に差があるのは当然だ。しかし、お勤めやご家庭の仕事の後にも関わらず、みんな元気で活発だった。ある部分、こちらの人たちの方が熱心で、率直に「わからない」と口にしたり大きくうなづいたりする。ほんとに一言一言をしっかり聞いてくださっている様子が伝わってくる。
     正直言って、ボランティアの人がこんなに多く、こんなに真剣に日本語の教え方を学ぼうとしていることに驚いた。日本語教育の世界はこの人たちに支えられているのだな、と改めて感じた。今とても忙しく、やっつけ仕事になりがちな自分を改めて反省。この人たちの満足げな笑顔を見るためにがんばらなければ。学ぶことの楽しさが伝わってきた。
     
     一方でこの世界を取り巻く環境は厳しい。また日本語教師の道をあきらめて一般企業へ就職する人の話を聞いた。いかんともしがたし。