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    May 26

    健康診断

     久々にバリウムを飲んだ。

     バリウムを飲むことはそれほど苦ではないが、げっぷを我慢するのは苦手だ。初めてバリウムと炭酸の顆粒を飲んだ時、医者が注意するそばからげっぷしたので、軽く怒られ、再度その炭酸粒を飲んだことがあった。そんなことぐらいで、なんで怒られるのか。

     それと、バリウムを飲んで胃の写真を撮るとき、バリウムを胃の中の壁すべてに行き渡らせねばならず、体をいろいろ斜めにしたりねじったりする。そのときの医者の指示の出し方がなんともいえず腹が立つ。それでもここ数年かなり言葉使いがよくなってきた。しかしやはり、自分の思い通りに体が動かないと「そんなにひねらなくていいんだよ、もっとまえでとめて」などと言われて腹が立つ。あんたの指示の出し方が悪いんやないか。ほなきみ、わてのゆうとおりにしてみんかい。

     今日は仕事も早めに切り上げた。バリウムのせいで体が重い。ちなみに今回はそれほど数値が悪くなかった。右目の眼鏡付きの視力が下がっている。眼鏡を買い換えた方がよさそうだ。

    あわただしい

     今朝、起きたら空が白んでいた。朝5時過ぎだった。もう一度寝た。次は7時に起きた。ちなみに昨日は、夕方5時ごろ就寝した。

     あわただしい1日だった。南大沢の首都大学東京で行われる日本語教育学会に朝から参加した。会場のあちこちで発表が行われている。日本語教育関係の書店も大幅割引で待ち構えている。新刊も多い。見るべきものがたくさんある。知り合いもちょこちょこいて、挨拶。

     朝うちを出る前は、なんで行くんだろう、こんなにつらいのに、などとマイナス記号を脳内にため込んでいたのだが、いざ学会へ出てみると、刺激がいっぱいあった。「出なかったら本当に損をしただろう」と思えた。人との出会い、いろいろな研究との出会い、熱意との出会いがあった。

     日能試の改定についての話もうかがえた。基金の嘉数先生もいらしていた。

     学会は途中で失礼し、東銀座の歌舞伎座へ。今月は白波五人男の通し狂言があった。日本語教師の友人3人と見に行った。3人とも初めてか2回目の歌舞伎観劇だったそうだ。江戸の悪の話で、河竹黙阿弥脚本。意外とコミカルな面もあり、なかなかおもしろかった。終わった後、ちょっとお茶を飲みながら、役者の話とかストーリーの話などをした。私は何とも思わないストーリーが、知らない人には奇想天外に思える部分もあって、そのギャップが面白かった。

     最近、ブログが日記っぽい。もう少し中身のあることを書きたいなあ。

    May 19

    なんとなく

     NPO法人日本語多読研究会のワークショップに参加した。

     これは、月に1回、新宿のとあるビルの11階で行われている。昨年9月から始まり、今回で8回目を数える。私はそのうち3,4回出席している。大体半分の出席率。できの悪い生徒、といった感じだ。

     「多読」を知らない人のために、少し説明すると、「多読」とは、ある言語を習得する際、自分のレベルに合った、いや自分のレベルより低いレベルの簡単な読み物を、好きなものだけたくさん読む、それによって自然にその言語が身に付く、といったスタイルの勉強法である。これを行うためには、さまざまなレベルの読み物が必要だ。英語では、「グレイディッド・リーダー」と呼ばれるシリーズがいくつか出版されている。ペンギンブックスやオックスフォード大学などのものがよく知られている。語彙や文法のレベルに合わせて、5段階か6段階ぐらいのレベルの読み物がたくさんある。

     この会は、その多読勉強法を日本語教育に取り入れようとしており、次の2つのことを目的としている。一つは、多読という新しい教育スタイルを定着させるため、多読授業実践例の報告や多読授業の進め方の説明を行うこと、もう一つは、多読するためには、レベル別に分かれた読み物の数を増やさなければならないので、新たな読み物をどんどん作っていくこと、この2つである。

     自分自身、英語の多読という勉強法に興味があって、多読教材を数多く読み込んだこともあり、日本語でそれを実践するのは面白いと思った。また、最初、この会がライターを募集している、と聞いて、創作的なことにも興味が惹かれた。自分で、日本語教育にどう関わるかいつも考えていて、勤務先以外での日本語教育の接点ができることも刺激的だった。

     ワークショップでは、2つ目の目的のための活動をしている。グループで一つの作品について、レベルを決め、そのレベルの語彙・表現を使ってリライトする、というワークショップである。題材となる作品は、昔話が多いが、オリジナルを作成したりもする。グループに必ず一人経験者がつき、その人の進行のもと、リライトが進められる。

     私は珍しく、先月・今月と連続しての参加だ。中国の4大悲劇の一つ、「孟姜女」という作品に挑戦した。この作品は、万里の長城の工事にまつわる悲話だ。「孟姜女」と呼ばれる深窓の姫君がある男性と結婚するが、その男は結婚式の夜に万里の長城の人夫として駆り出され、生き別れてしまう。姫は待つのに耐えられず、やがて冬服を届けに工事現場に向かうのだが、苦労して着いたら、すでに夫はこの世になく、彼女は大声で泣き叫ぶ。すると、長城の壁が崩れ、亡き夫の遺体が現れる。悲しみのあまり、最後は壁に頭をぶつけて自分もしぬ、という壮絶な話だ。

     語彙や文型に制約があるので、翻案の作業はなかなか進まない。単純に、語彙を簡単にすればいいのではなく、そこに書いてあることの気持ちを察したりすることが大切だ。苦労して万里の長城にたどりつくまでの描写でも、冬の始めという季節の描写があったほうが情感が出るのでは、他のシーンと対照して時間の経過を強調できるのでは、とか、ただ大変そうな風景を描写するだけなのか、それとも、「つらいいけど、愛する一心で」などと気持ちを書きこむほうがいいのか、など、いろいろな角度から、限られた表現しか理解できない読者へ物語を伝える方法を考える。

     そういう作業は、どこか、俳句や短歌を詠むことに似ている。俳句では、感情を直接述べず、できごとやものを描写することに気持ちまでこめる。短歌は多少字数に余裕があるから、気持ちを入れて作る。

     前々から、古典文学を現代語に翻訳してみんなに分かりやすく知ってもらいたい、と思っていた。日本語教育にかかわり、まさかこんなチャンスが巡ってくるとは思わなかった。外国人に日本の文化を伝えるいいチャンスだ。

     伝えたい文化はいろいろあるが、身近なチャンスからうまく生かしていきたい。

    May 18

    Maneから

     毎週土曜の大学の非常勤の仕事が、今年は1限と2限になった。つまり、9時から授業、ということである。かなりきついなあ、と始まる前は思っていたが、今はだいぶ慣れた。しかも、なかなかいい感じでスタートできた。

     昨年末のシラバスの内容を、ちょっとスパルタチックに書いてみた。これまでは大学生の年齢に阿った、というか、迎合するような、フレンドリーさをアピール(たとえば、もう古いけど、椎名林檎の歌詞を考えてみます、とか)した内容だったが、どうも学生の質が上がらない。逆に、楽に単位が取れる、と思って受講するようだったので、思い切って、「厳しいけど、文章を本気で上達したい人は、ぜひとって」という姿勢に変えた。受講する学生が減った場合のことを想像すると怖かったのだが、意外にも受講生は昨年より増えた。しかも、質もいい。

     朝は必ず、学生の何人かに今週のトピックを、何でもいいから話してもらう。発表しない人には、必ず他の人の話について質問される。発表者は、説明をわかりやすくする練習になり、質問を受けることで、自分の話に何が足りなかったか、今度からどう話せば分かりやすいか、勉強する。質問者は必然的に話を真剣に聞かざるを得ず、また的を射た質問の練習になる。その他に、実は、朝早いので、話し合うことで学生たちの脳を覚醒させたい、という意図もある。

     今年は、私が行なってきた作文教育について、集大成となるような活動をしたいと思っている。といっても、忙しいので大そうな準備はできない。2つの方針を目標にしている。一つは、これはあまり大声で言えないが、私のメインの仕事先の、日本語教師養成講座での養成方法を、作文教育に応用させることである。うちの養成講座での実習は、よく、自己評価や他者評価というものをお互いにさせる。しかも、その評価シートを段階別に用意している。最初はチェック項目を少なくし、基本中の基本に重点を置くが、だんだん授業が進むにつれ、高度なことをチェック項目に入れていく。作文も、実は週一回の授業ながら、大学一年間で大きく成長する。しかも、授業が終わった後も自分で成長する力を身につけねばならない。それには、自分自身を評価する批評眼を身につけることが欠かせない。そのためにもこの方法論は応用できる。何より、自分が楽だ。どちらも材料は違えど同じ考え方だから。

     もう一つの方針は、フィンランドメソッドを取り入れる、ということだ。これも、前々から試してみたかったことである。ご存じの方も多いと思うが、フィンランドは、PISAという世界で行われる学力調査で、ここ最近トップクラスの成績をとっていて、教育業界で大きく注目されている。いわゆる詰め込み教育の対極をいく教え方で、競争するためにいろいろ詰め込むのではなく、自分で考える力を養う、という教育だ。そして、それを具体的に実践するため、ユニークな教育がおこなわれている。これまで、少しずつ本は買いためて、ある程度やり方は理解できていたので、それを何とか作文教育に応用しようとしている。

     カルタと呼ばれるアイディアを書きとめたカードを作り、それを「なぜなら」などを使って並び替え、作文を短時間で書く、ということをおこなった。これはまずまずうまくいったようだ。

     スパルタ、といった以上、かなりたくさんの作文を書かせる。今日から添削の嵐だ。大丈夫だろうか。また時間があれば、この教育方法の報告をします。

    May 15

    朝の読書

     朝、読書の時間ができた。

     早起きしてカフェのモーニングセットを食べながら仕事の一部をするのが日課となっていたが、その仕事がようやく落ち着き、時間だけ浮いた。

     最近読んでいるのは、この前にも書いた、「イカの哲学」と、「言葉の海へ」という本。後者は、「言海」という有名な辞書を編纂した大槻文彦の生涯を描いたものだ。友人に勧められ読んでいたのだが、なかなか進まない。本のなかのストーリーも、回想をする形で展開するので、なんだかもどかしい。でも、ようやく第5章が終わりそうで、残り三分の一ぐらいになった。

     今日、友人の女性の先生が、外国人クラスで「日本人の男はどうですか」というアンケートをとったところ、「つまらない」という答えが多かったそうだ。なんか、身をつまされる思い。このブログも、もう少しなんとかしたい。

    May 14

    おぼれそうな思考

     寒い日が続いている。3月下旬並みの寒さらしい。

     そんなことはおかまいなしに、スポーツクラブへ行って、泳いだ。

     泳いだ、といっても、ほとんど、水中ウォーキングだ。体を慣らすために、まずストレッチしながらプールを歩き、その後500メートルほど泳ぐ。久しぶりに泳ぐので、筋肉痛が怖くてあまりたくさん泳げない。徐々に伸ばしていこう。それからまたウォーキング。

     歩きながら、いろいろなことを考えた。勤務先の学校で今担当しているクラスのこと、お昼のロシア料理の後に出てきたロシアンティーのこと、そこから連想したアイリッシュコーヒーのこと、今読んでいる「イカの哲学」という本のこと、これは、大量のイカに囲まれて、実存的な思考に行き着く特攻隊の生き残り→シベリア抑留→日本に帰国した後アメリカのスタンフォード大に留学した哲学者の話で、結構面白かった、それから、中央競馬の栗東トレーニングセンターでのプール調教、坂路調教のこと、この2つの設備のおかげで関西の厩舎の競走馬が強くなったそうだ。

     泳ぐのは昔から好きだ。自由に体を動かせるのだが、水の抵抗がある。水の中では、誰の力も借りることができない。完全に一人になれる。

     海で泳ぐと、何ともいえない怖さが頭の片隅にある。でも、空と海と一体になったような心地よさ。完全に一人でありながら、世界のすべてと繋がっているいるような感覚―――

     電車を降りて家まで帰る道のりは、水の抵抗がない分、足が軽やかだった。

    May 12

    言はで思ふぞ言ふにまされる

     今は昔、磐手郡(いはてのこほり)から帝へ鷹が献上された。帝はその鷹をいたく気に入り、献上された土地の名前をとって、「いはて」と名付けた。ある日、鷹匠がその鷹を不注意で逃がしてしまった。帝が大のお気に入りであることを知っていたその鷹匠は、来る日も来る日も探したが見つからず、正直に「いはて」を失ったことを奏上した。帝は、鷹匠を責めたりせず、ただ一言、「いはでおもふぞいふにまされる」と歌った。

     この話は、大和物語にある話の一つである。「いはで思ふぞ言ふにまされる」。「いはて」には、もちろん、鳥の名と「言はで」が掛けられている。

     私はこの言葉が大好きだ。言わない思いのほうが、口に出す気持より優っている。でも、口に出せず気持ちを伝えないことはつらいことが多い。

     私は結構、言葉を溜める性質だ。少々角が立っても言った方がいいことが言えないことが多い。この間もこんなことがあった。つまらない話なのだが、同僚と近くで飲みに行こう、ということになり、ある先輩の一人が、その先輩の大好きな店の名前を挙げた。その店はみんなが好きな中華料理の店で、最近はみんなでそこへ行くことがなかった。しかし、実は私はその次の日、別のメンバーと一緒に行く予定にしていて、予約も入れていた。もう店の近くまで来ていたので、結局、事情を言えないまま、お店に入った。その後は・・・。

     はっきり人に自分の気持ちを伝えられず、仲違いしてしまうこともときどきある。人間関係の修復がうまくない。言わない方が思いは大きいが、相手にとっては負担になるかも。口に出したほうがすっきりする。気持ちも人間関係も。

     「いはでおもふぞいふにまされる」という言葉は、言葉にならない言葉になっているところがいいのだ。思いがまさっている、ということを、言葉で説明している。思いを伝える、その伝え方が大切だ。一つ間違うと、ただ思いをぶつけているだけになってしまう。

     父や母へどんな思いを伝えればいいのだろう。

    May 07

    モンテーニュ通りのカフェ

     「モンテーニュ通りのカフェ」というタイトルの映画を見た。渋谷の文化村近く、ユーロスペースという映画館だ。

     そこで、もう一つ、邦画で、「パークアンドラブホテル」というタイトルにも魅かれたのだが、せっかく見るなら違和感が大きいほうがいい、と思って、例の如く邦画を避けた。

     たまたま出会った映画だが、これが近年にないぐらい大きな満足を得た映画だった。いかにものフランス映画なのだが、見た後も爽やかな、重すぎず、パトリスルコントのように軽やかでテンポがよく、それでいて人生をいろいろ考えさせてくれて、しかも、じわっと深みも出てくる、そんな映画だ。こういうのを本当のエスプリというのかもしれない。

     あらかじめ、私は映画に関しては素人ということを断って、ざっと感想を述べたい。おばあちゃん子のジェシカという一人の若い女性が主人公。田舎から上京した彼女は、凱旋門近く、エッフェルタワーがよく見える劇場前のカフェで働き始める。そこでいろいろな人物と邂逅する。テレビで活躍中だが映画に出て一流に見られたい女優。盛装をしてコンサートを行うことに嫌気がさし、クラシックをもっと多くの人に身近に感じてほしいからこの職業をやめたいと思っているピアニスト、絵画などの骨董品を集めるのが唯一の趣味だったが一度に全部手放す決心をした老人、などである。

     基本的にはコメディらしかったが、現代フランスをシニカルに捉えているらしきセリフがいくつかあり、理解できない笑いもあった。でも、単に笑うのではなく、それぞれの人物の人生をしっかりと描いているところが面白い。ジェシカは一流の人物と出会うのだが、それぞれ深い悩みを抱えている。ピアニストは、収入が少なくなってもいいから、病院や刑務所の慰問のためのコンサートを行なっていきたいと思っているが、奥さんは音楽の夢を夫に託し、マネージメントを続けてきたので、夫の考え方に理解を示さず、仲がこじれかけている。ピアニストは奥さんを愛しているが、自分の生き方をコントロールされることにはうんざりしていた。

     そういったそれぞれの生き方が、ジェシカという素直な女性を通して浮かび上がっていく。それほど深刻でもなく。それがなんともいえず面白い。それらの人生がジェシカを中心に絡み合い、ある一日を迎える。ピアニストのコンサート、女優の舞台初日、老人の収集品のオークション、それらがカフェの前の劇場で一斉に始まるのである。

     その他にも、カフェの主人やもうすぐ定年を迎える劇場の管理人の女性なども彩りを添える。

     いろいろ面白いシーンはあったが、映画を見た後反芻しながら気がついたある場面があった。上に挙げた女優は映画に出ることを夢見ていて、ある日憧れのアメリカ人監督とカフェでばったり会う。その女優は監督に話しかけるが、監督の過去の作品を間違えたり最新作を知らなかったりして、悪い印象を与えてしまう。次の日、もう一度監督と彼女が会い、監督が次回作の構想を語る。彼女はその監督の次回作に出たくて、一生懸命話に食らいつく。そのシーンが面白かった。監督は、サルトルとボーボワールの物語を描こうとしているらしいのだが、アメリカ人監督は二人の愛を深遠でベールに包まれた尊いもの、というイメージを述べる。すると、彼女ははっきりそれを否定し、セックスを求めていただけなのだ、と身も蓋もない言い方でまくしたてる。

     その部分だけみると、女優の話しているアイディアの方が魅力的で、アメリカ人監督も、最初は驚きつつだんだん引き込まれていく。しかし、その女優は作品もよく知らないアメリカ人監督にあこがれ、それを権威的に見ている。私の読みすぎかもしれないが、フランスとアメリカの関係をシニカルに捉えているようにも見えた。

     日本人インタビュアーがピアニストにインタビューしているシーンもピリリと皮肉が利いていた。日本人が改めて彼に発した質問が、「どんな動物が好きですか」。こんな質問ばかりしているイメージなのだろうか、日本人は。でも、妙に納得した。周りの日本人たちも笑っていた。

     

      なんか、だらだら長くなった。この映画はもう一度みてもいいと思う映画だ。まだまだ発見できていない意味があるような気がする。人生も、そんなもんか。

    May 06

    ヴラマンク展

     久しぶりに美術館へ行った。「東郷青児美術館」。頭に刺激を与えたかった。心に栄養を与えたかった。

     休みの日の割には空いていた。時間がお昼前だったせいだろうか。天気も悪くなりかけていた。

     ルノワール展なども魅かれたのだが、私はちょっとへそ曲がりで、いわゆる主流からずれたような画家が好みだ。印象派というよりは、そこから派生した人、のような感じだ。マティスとか、モディリアーニとか。ピカソのような、シュールレアリズムの走り、のようなのもいい。シャガール、ダリも好きだ。ロートレックとか、ミーシャも好き。

     今回のヴラマンクという人は、マティスらとともに「ファビズム」(野獣派)と呼ばれた一派の人らしい。私は全く知らない画家だったのだが、電車の吊り広告に出ていた、力強い線と色合いが気に入って、見に行く気になった。

     作品はとてもよかった。初期の作品は大胆な色使い、筆使いで、細かく書かないタイプなのだが、徐々に色合いが落ち着いてきて、後期になると、構図も筆さばきも繊細になっていく。近くで見ると、どう見ても無造作に筆を動かしているとしか思えないのだが、遠くから見ると、絵画全体に表情があふれている。特に、空の描き方と水面の描き方がよかった。空は、クリーム色だったり、雑に塗りたくっていたりするのだが、自己の内省の心象風景になっているようだった。川の水面は、なぜかいつも地上の建物や木々がきれいにうつらず、適当に色を置いているようにも見えるのだが、その部分がなぜか妙にリアルなのである。画家の目にはこんなふうに映っているのだな、と妙に納得させられる。

     晩年近くになると、はでな色使いがまた戻ってきたような作品があり、何ともいえない円熟味がある。うーん、すごい。

     心が少し、潤った気がした。でも、まだまだだ。何かが足りない。

    May 05

    私的言

     連休の後半も後半になろうとしている。

     歌舞伎に行くなど、ちょこちょこ予定は入れてあるが、基本的にゆっくりとした時間ができた。靴やかばん、財布を磨いたり、買い物をしたり・・・。自分の人生を見つめるまでには至っていない。

     たまに、自己啓発書の類を購入するのだが、後で冷静に読み直すと、なんて恥ずかしいものを買ったんだ、と自責の念に駆られる。本の整理をしつつ、その一冊をちょっと読みふけってしまった。「求心力 人を動かす10の鉄則」。こうやってタイトルをパソコンで打っているだけで恥ずかしい。齋藤孝が訳・解説を行なっている本で、ちょっと興味をひかれて買った。私は別に部下がいるわけでもなく、人がついて来なくて困っているわけでもない。

     その本の10の鉄則を改めて読み返していたのだが、あることに気づいた。それは、10の鉄則すべてに共通するのが、「相手をほめよ」ということだ、ということだ。相手を認める、相手を信頼する、そのことに尽きる。なんだか、ちょっと拍子抜けした。私が最近、教育の現場でテーマとしていることと同じではないか。でも一方で、ほめることがいかに難しいか、改めてわかった。こうやって、繰り返し手をかえ品をかえ、相手を褒めることが大事だ、といわなければならないほど、このことは大切なのだ。

     教育に携わっていると、学生に対してつい言いたくなる。「そこがよくないんだよ」「そこは、そうじゃなくてこうでしょ」。注意して直すことも、もちろん大切だ。というか、学生の未熟な面ばかりが気になって、ほめる言葉がなかなか出てこないのが普通である。

     ずっと前、仲がいい外国人学生と話していたとき、「先生は、いつも注意ばかりするから話しにくい」と言われた。こちらとしては、早く日本語がうまくなってほしくて、訂正をしていたつもりだった。自分としては、それほどたくさん注意しているとは思わなかった。そう言われてから、少しアプローチを変えてみた。意識していい点を見つけるようにした。メールをもらったときも、ちょっとしたことを見つけて、「日本語うまくなったね」というようにした。すると、本当に以前よりどんどん成長していくように思えた。

     そんな、目先の順調さばかり追い求めている。大きなビジョンが足りない。頭が疲れすぎている。もっと、生きている実感がほしい。(なんか、私小説的になってきている。)