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    April 29

    スポーツクラブ

     思い切ってスポーツクラブに入会した。

     前から考えていたのだが、なかなか実現できなかった。というのは、仕事がいつも遅くなるので、夜に通えないのではなかろうか、という考えが捨てきれなかったからだ。

     しかし、人にはあまり言っていないが、健康状態があまりよくない。ここ2回の健康診断は悪くなっているし、最近、頭痛が治らず、また心臓がたまに苦しくなったりする。病気の一歩手前の状態だ。

     まず一番に挙げられるのは、やはり運動不足だ。全然運動していない。たまに、3駅ぐらい前の駅で降りて歩いたりするのだが、雨が降ったり遅い時間になったりで長続きしない。

     というわけで、ようやく決心した。連休中は仕事も少なくなるので通いやすいだろう。

     今日はプールを中心に活用した。

     まずは水中ウォーキング。ストレッチしながら、徐々に体を水に慣らしていく。25メートルプールを3往復して、いよいよ泳ぎのコースへ出る。今日は連休の谷間ということで、かなりすいていて、一人1レーン使える状態だった。ひとかき、ふたかき、みかき・・・。水をつかむようにしてクロールで進む。プールで泳ぐのは本当に久しぶりだ。

     50メートル泳いだところでとまった。久々だったので、腕の付け根(つまり肩)の回りが硬く、もう一度腕を回すストレッチをおこなった。再度泳ぐ。200メートルも泳ぐと息が切れ始めた。やはり運動不足のつけは大きい。

     その後、休み休みしながら結局500ほど泳ぎ、ジャグジーを楽しんだ。ミストサウナなども体験した。

     今日の筋肉痛はいつ出るのだろう。願わくば、学校へ出る30日までに出ますように。

    April 13

    愚かさという宝物

      くだらない話で やすらげるぼくらは

      その愚かさこそが 何よりの宝物    「愛のことば」song by spitz

     

     最近この歌詞がまたしみいる機会が増えた。

     年度の変わるこの季節はなぜかせつない日々で、人の出会いや別れがある。久しぶりに会う人もいる。

     

     私が日本語教師養成で担当している教壇実習クラスの人たちが3月末に修了し、みんな巣立っていった。と思ったら、なぜかその2週後にクラス会。こんなにまとまっているクラスは初めてだ。私も呼んでいただき、のこのこ出て行った。

     みんなそれぞれ、もういろいろな現場の苦労をしている。ある人は、韓国人サラリーマンを相手に悪戦苦闘。初級でよくある、こどもっぽい言い回しを指摘されるなど、現場ならではの苦労があったようだ。でも、そうやって、相手に合わせて授業をしていくことを覚えていくのだろう。ある人は、養成講座では見慣れないスーツを毎日着ている。年が若く学校に入りたてなので、教師としてなかなかみてもらえないそうだ。だから、形だけでも、ということらしい。

     みんな、学校にいたときは、教師である私と基本的に「おしゃべり」をすることはほとんどなかった。当り前のことだ。私は仕事中。向こうも、こちらにいろいろ遠慮している。でも、学校が終わってこうやって話す機会が持てるのは本当にうれしい。こうやって誘ってもらえるのもうれしい。こんなことなら、学校にいるとき、もう少しやさしくしておくべきだった、などと思ったりもする。

     冒頭の歌詞、前は、私にとって、学生時代の友達のありがたさ、と受け取っていた。社会人になると、人間関係が利害中心になるので、うちとけた話ができる人は学生時代の友達しかいないなあ、などと思っていた。でも、今の学校で教壇実習を担当すると、かなり密度の濃い関係ができ、それが続くと、こんないい財産ができるのだなあ、と今回しみじみ思った。

     この間は、3月に日本語クラスを卒業した、韓国人の女の子から連絡をもらった。直接日本語を教えたことはほとんどないが、なぜか私を慕ってくれて、今の様子を話に来たい、という。ありがたいことだ。

     このブログにも、素敵な方がコメントを下さり、ご自分の素晴らしいブログに私のブログのリンクをはってくださった。うれしいやら恥ずかしいやら。その方のブログはほぼ毎日更新されていて、いつも色鮮やかな写真と洒脱な文章をのせている。あれだけの質の高い文章と写真をあの頻度で続けるなんてすごすぎます。私の永遠の目標ですね。

     うちの学校は明日から新学期。新たな出会いが待っている。                               

    April 09

    collocation

    この間の週末、歌舞伎の昼の部がいつもより早く終わったので、日本語教育専門書店Bを訪ねた。東銀座から約20分。麹町にある。

     話がいきなりそれるが、その日の歌舞伎はよかった。久しぶりに玉三郎を見た。当代の女形としては完全に抜きん出ている。オーラが違う。「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」という、長谷川伸脚本の近代歌舞伎で、お仲というささくれた女の役だったが、これがまた勘三郎と息がぴったりで、その掛け合いだけでも楽しめるのに、玉三郎の艶やかさと言ったら。今月の井上ひさし作の浮かれ心中は、チケットがとうとう手に入らなかった。夜の部は行けない。

     話が戻るが、Bで久しぶりにかなり本を買い込んだ。仕事がらみで、ここでは9掛けで本を買うことができると分かり、早速その特権を使ってみた。しかし、カウンターに新人らしき人しかおらず、私の名刺と顔だけでは割引が効かない雰囲気に。たまたま私と仕事のやり取りがある営業部の責任者がいて、何とか割り引きに成功した。周りにがめつい人間の印象を与えてしまったのは本当に恥ずかしかったが。

     その中に、辞書が2冊あったのだが、うち1冊はコロケーションの辞書だ。

     先週、卒業したばかりの、教師養成講座の修了生からメールで質問があった。「メールをうつ」というのは、どうして「うつ」という動詞を使うようになったのか、というものである。メールは「書く」ものであり、「うつ」という動詞を使うのはどうなのですか、携帯のような小さなものを指で「うつ」というのはおかしくないでしょうか、という疑問らしい。でも、携帯でメールを書いている様子は、まさに「うつ」=キーをたたく、という表現がぴったりくる。ちょっと古いが、タイプライターを打つ、とか、電報を打つ、という表現に似通う。

     広辞苑その他の辞書で、「打つ」の前に来る目的語にどんなものがあるか探してみた。慣用句的なものとしては、ピリオドを打つ、胸を打つ、などがあった。そんな作業をしているうちに、コロケーション辞典なるものに思い至り、うちに揃えておくことにした。

     以前調べたとき、確か日本語のコロケーション辞典が2つあったと思ったのだが、緑色の表紙の「知っておきたい 日本語コロケーション辞典」しか見つからなかった。この辞書は、たとえば、「胸」など目的語や主格語になる言葉をひき、それに続く述語がいろいろ載っている、という形式のものである。もう一つ、動詞や形容詞などの述語をひいて、そこに目的語となる言葉が収載されている、という形のものもあるはず、と思っていたら、なんとうちにすでにあった。「日本語表現活用辞典」というタイトルで、すぐにはコロケーション辞典と分からない。

     日本語教育では、そのときどきの学習者に合わせて例文を作り説明をするが、私はこの例文作りというのが苦手だ。だから私は、例文集の類の本をいっぱい抱えて、必要のある時はたくさんの中から選ぶようにしている。自分で1から作る、という面倒なことはしない。日本語の教師は、それらの例文からその文型の用法を自分で考え説明することがよくあるが、これは私にとっては最初、非常に大きな驚きだった。私にとっては、そういう文法のルールや言葉の意味というのは、まず辞書を確認することが第1の作業で、それらの比較検討から自分なりの意味を模索する。用例も、過去の文献からいろいろ探すのが通例だった。でも、日本語教師は、辞書にそれほど頼らず、あるときは、自分の教えやすさのために、あえて文法書の解説を無視して恣意的な教え方をすることもある。

     現代語を紐解くには、辞書に頼りすぎるのもよくない気がする。辞書に載っていない言葉の使い方がたくさんある。だが、せっかくの言葉の宝庫である辞書を活用しない、できないのもどうかと思う。辞書にはいろいろなタイプがあり、使い方によっては日本語教育にいろいろ応用できる。コロケーション辞典の使い方も、これを機にいろいろ考えてみたい。

    April 06

    中国名文選

     最近少し余裕ができた。読書の時間も少しずつ増えている。気候もいい。

     たまっていた新書の続きを読み始めた。今面白いのは、表題の「中国名文選」(興膳宏・岩波新書)。もともと漢文は好きだが、時間があまりないので、こういう解説付の読み物しか読めなくなってしまった。作者の興膳氏は、確かうちの大学で中国語を教えていたような気がする。

     いろいろな名文を紹介している。まだ読んでいる途中だが、面白かったのは、「荘子」だ。老荘思想などでその考え方に触れたことはあるが、胡蝶の夢など故事成語として知っているだけで、本の内容はよく知らなかった。でも、その紹介されたところを読んでみると、なかなかおもしろい。『論語』や『孟子』が現実的な話をまとめているのに対し、『荘子』では、ちょっとありえない架空の話が皮肉たっぷりに書かれているらしい。その架空の話の中には、「天は青青としているが、天からみたこの大地も同じように青く見えるのだろうか」などと、地球の色を知った現代からみるとどきっとするような想像をめぐらしていることもある。

     その中に、次のような話があった。水は、深くたたえられていなければ、大きな船をうかべることはできない。水たまりには小舟しかうかばない。鳳は、その羽根の下に風の層を厚くもたなければ、飛ぶことはできない。それをヒグラシと小バトがあざわらう。おれたちは小さな木に向かって全力で飛び上がるが、鳳はどうして9万里の向こうまで行ってしまうのか。

     最近の自分を振り返ると、目の前のことをこなすのに汲々としていて、全体について思いめぐらす時間がなくなっている。毎日やっていることも、積み重ねの一つ、大きなものの1部分としてとらえることで、初めて生きてくるのであり、単にこなすだけで考えなく終わると、小さいままで流れてしまう。小さな常識にとらわれて、大きな何かを成すことができない。

     他にもそれに類するたとえがあり、何か、気付かされること大だった。そのうち、いいテキストが見つかれば、原書に近い形で読んでみよう。