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October 29 『「奥の細道」をよむ』を読んで中華街でたらふく食べた帰りの車中、20年来の友人Iが、「なあ、最近読んだ『奥の細道』関係の新書、なかなか面白かったで。はるかさん、読んだ?」と尋ねてきた。 彼とは久しぶりに会うと、いつも映画と本の話をする。大切な情報交換の場だ。私がそこで話した映画や本が、彼にどの程度影響を与えお役に立てているかは知らないが、私のほうは、本当に役に立っている。彼の推薦した本は、めったにはずさない。一番よく覚えているのは、岩波文庫の「クォヴァティス」。ローマ帝国時代の、キリスト教迫害に関わった貴族を主人公にした小説だ。これは4,5冊シリーズのかなりの長編だったが、すごく面白い小説だった。今は大きく違う世界にいるが、やはりバックボーンが同じせいか、興味のツボが同じらしい。 私は文学部出身だが、どちらかというと小説よりも論理的な文章が好きだ。だから、新書などをよく読む。だが、彼の尋ねた本はなかなか思い出せなかった。彼が、「たしか、歌を作る人が書いていたような…」と言ったので、ちょっと思い出した。確か、店頭で手にとったが、古典和歌や俳句は食傷気味に感じ、買うのをやめた本だ。 後日、Iの目利きを信じ、例の本を買った。これが、面白かった。すごく面白かった。私の好きな連句の話もからんでいるではないか。何より、わかりやすかった。「かるみ」という大きなテーマを軸として、鮮やかに『奥の細道』を切り分けて読んでいた。作者は歌人ではなく俳人だった。その人の俳句はちょっと気取っていてあまり好きではなかったのだが、文章は抜群にうまかった。 ただ、研究者から見ると、いただけない解釈も多かったように思う。解釈が厳密ではなかったり、他の研究者の解釈をしらみつぶしに検討しているわけでもない。また、確かに分かりやすい論だが、論理に飛躍のある部分もないわけではない。でも、学者的な作品の見方に拘泥していては、見落とされる面白さがあることが、だんだんわかってきた。そこが楽しめたのは今回よかった。 私はまだまだ、「かるみ」の境地には程遠い。煩悩だらけ、嘆きだらけの人生だ。 October 28 鳥のうたこれは、わたしが大学院にいたとき、わたしの先生がおしえてくれた話です。チェロ(cello)の奏者(player)で有名な、スペイン出身のパブロ・カザルスという人は、ふるさとの、カタロニア地方のfolksongをよく演奏(えんそう)したそうです。そのタイトルは、「鳥の歌」。 カザルスさんは、よく、つぎのように言っていたそうです。「わたしのふるさと、カタロニアでは、鳥は、”peace peace”と鳴くのです。」 カザルスさんは、ふるさとのひどい政治(せいじ)を悲しみなげいて、ずっとふるさとに帰らなかったらしいのですが、心の中では、いつもふるさとの鳥が鳴いていたのでしょう。 日本にも、赤ちゃんは「こうのとり」という鳥が天からはこんでくる、という伝説(でんせつ=legend)があります。鳥は、平和(へいわ=peace)をはこんでくる、天からの使者(ししゃ=messenger)。みなさんの国には、どんな「鳥の歌」、鳥の話がありますか。 日本語教育と国語教育 土曜の大学の後期授業が10月から始まった。
日本人相手の作文授業だ。後期は学生にとにかく作文を書いてもらい、添削をしていく形になる。
面白いもので、数回書いただけで、作文の質が上がってくる。学生たちは、単純に、作文を書く機会がないからうまくないだけなのだ。
後期は、自分が準備になかなか時間をかけられない事情もあり、シンプルに、作文を書く時間と講評の時間を交互に行なうことにした。ある週、1時間で600~800字の作文を書いてもらい、次の週は、小グループでそのグループの人の作品を回し読みし、コメントを各人に書く。そのメモをもとに小グループでディスカッションを行い、お互いに意見を交換する。最後に自分の作文について自己評価コメントを書く。これの繰り返しだ。
前にも書いたことがあるが、10人に満たないこのクラスのうちの一人が中国人留学生だ。満州族らしい。留学生は本当に苦労しているようで、彼女も例外ではなく、前期にかなり精神的に参っていた時期があったし、夏休みもいろいろ悩んでいたようだった。彼女のボーイフレンドは、大学へ入る前の、ある日本語学校で出会ったサウジアラビア人Mさん。彼は、数学や英語、日本語などの補習を別の日本語学校で受けていたのだが、たまたまその補習の学校が私の主勤務先の日本語学校だった。複雑だが、何か縁があって彼や彼女とどうやら出会ったらしい。
彼女は最近ようやく落ち着いてきた。この小さなクラスでも、ようやくなじみ始めた。彼女の明るさとか強さがだんだんいい方向に働いてきたし、彼女の作文をみんなが読み、しだいにみんなが彼女のこと、留学生の大変さを理解し始めた。人間というのは面白いものだ。
最近では、彼女の作文をディスカッションのテーマとして取り上げ、例えば日本の中国人留学生増加や外国人労働者増加の問題などについて議論した。日本人に言いたいことは山ほどあるのに、こういう機会はなかなかないらしく、最初は戸惑っていたようだが、終わった後、「とても楽しかった」と言っていた。日本人学生も、戸惑いながら反論、あるいは認めるべきところは認め、日本について改めて考える機会が持てたようだった。また、彼女の日本語の間違いも時々取り上げ、日本語の特質について説明したりもしている。
この間驚いたのは、その彼女から、大学での日本語授業の様子を聞いたときのことだ。留学生の日本語授業のなかにも作文の授業があった。そこでは何と、30~40分で1000字程度の作文をみんなが書くそうだ。私の授業より大変ではないか。正直、かなりショックだった。私はこれまで、教え方が甘かったのだろうか。勝手に彼らの能力を過小評価していたのだろうか。もちろん、留学生の場合は、作文を書く前に、その日のテーマについてディスカッションし、キーワードを板書した上で作文に取り掛かるそうなので、条件は違うだろうが、それにしても・・・。
日本人向けの国語教育と留学生向けの日本語教育は、相互交流を行なって刺激しあえば、もっとお互い発展するのではないかと思う。 何かアイディアがあれば、また書きたい。 October 24 流れ星 今日は、ひさしぶりに、Eクラス「流星」で、外国人に日本語をおしえました。
クラスの学生は、ヘンリーさん、ピーターさん、マルセーさん、ソンジュさん。
ヘンリーさんはおもしろい人です。日本に長く住み、日本のことをよく知っています。私のふるさと、松山に行ったことがあるそうです。なつめそうせき、ぼっちゃん、どうごおんせんを知っていました。日本語をはなすのがとても上手です。http://www.bakubo.com/index.html
ピーターさんは、しずかな人です。ベルギー人で、けんちくかです。話すことは少ないですが、とてもいい文をかきます。やさしそうな目がすてきです。
マルセーさんは、スペイン人ですが、スペイン人じゃありません。バルセロナから来ました。カタロニア人です。ひかえめですが、とてもよく笑います。かわいい人です。http://www.fotolog.com/itas_santaka
ソンジュさんは、韓国人です。結婚していますが、うちでは料理を作ったことがありません。日本語がとても上手です。
私は今日、とても楽しかったです。なぜなら、クラスのみんながとてもおもしろく、コミュニケーションに熱心だったからです。またこのクラスの人と会いたいな。
ときどき、かんたんな日本語でblogを書きます。みんな、見てね。写真も、見てね。
October 21 劇団ひとり 「劇団ひとりに似てない?前から思っていたんだけど」と、1週間に2回言われた。
そんなに急に似てきたのかな。今、不精して髪がかなり伸びたからかしら。
そう言われた私の気持ちはビミョーだ。決してうれしいわけではない。でも、似ている、と言われるのは、ちょっとわかる気がする。
なぜ納得できないか。たぶん、「劇団ひとり」に対してあまりよい感情を抱いていないからだ。少なくとも、あこがれる存在じゃないし、お笑いとして認めているわけでもない。何となくなよなよした感じだし、そこまで似ていると言われるのはいやだ。そうだ。「似ている」というのは、単に顔だけでなく、その人のイメージまで重ねられがちだから、いやなのだ。(今週、私が劇団ひとりに似ていると言った片方の人から、「ひとりは最近、小説も書いて文化的なところも出てきたからね。それで似てきたんじゃない?」といわれた。何だかなあ。強引なフォローだ。)
20代は、石黒賢に似ている、と言われた。これはいいほう。「サザエさん」の中の「中島くん」に似ていると言われたこともある。メガネで印象薄い感じ。こういうのが多いかな。私は太ったとき、2~3キロの増減ですぐ頬に反映する。太ったときの私(今の私)は、去年のことだが、クマのプーさんに似ている、と言われたことがある。インドネシア人の女の子たち。少しやせ気味のときは、ハリー・ポッター。これを言われた回数が多い。とくに、外国人からよく言われた。『源氏物語』のキャラクターでは、「夕霧」に似ているとよく言われた。律儀なところ?こうなると完全に性格についてのコメントだ。
最近あまり食欲が出ず(秋なのに???)、いい感じにやせつつある。髪も切った。来週は「ひとり」と言われないようにしよう。 October 15 和歌と和菓子と―お菓子いとをかし 和菓子の老舗「とらや」の有名なお菓子に、「夜の梅」という羊羹がある。(http://www.toraya-group.co.jp/products/pro01/pro01_001.html)
この羊羹は、小豆が羊羹の中に粒のまま入っている。羊羹の切り口の小豆の断面が粉で白く見えるので、黒い羊羹の中に小豆の粒が白く浮き出ているさまを、夜の闇に浮かぶ白梅に見立て、「夜の梅」と名付けられたそうだ。上記の「とらや」のHPによると、元禄7年(1694)に初めてその名が資料に表れる古い名前で、現在では「とらや」を代表する商品となっている。 小豆の断面を白梅、黒い羊羹を夜の闇に見立てるとは、なんと優雅なこと!どこからそんな発想が出てくるのか。実はそのモチーフになっているのは、『古今和歌集』の和歌である。巻一春歌上に、こんな歌がある。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」(凡河内躬恒)一首の意味は「春の夜の闇は、わけがわからないものだなあ。梅の花は確かに姿は見えないが、香りはかくせやしない。闇とはすべてをかくすんじゃなかったのかい」ぐらいの意味である。香りうんぬんは、羊羹とは無関係だが、夜の闇の中の梅を賞美する伝統的な美的感覚・季節観を取り込んで、ネーミングしたと思われる。つまり、和菓子は、お菓子としてのおいしさだけでなく、その形と名前から、季節の風物の美しさ、それにちなんだ古典の世界までも味わうことができる、すばらしいものなのである。 このような、和菓子の名前のことを菓子銘・菓銘と言う。たとえば、「かきつばた」。これは、その名の通り、かきつばたの紫の花を模した形の和菓子だが、ただ単にその季節の花、というだけでなく、『伊勢物語』九段の、東下りの1節を想起させる。秋には、紅葉を象った「竜田川」という名のお菓子が登場するが、これは、百人一首でも有名な、「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは」をモチーフに、紅葉の名所を菓子銘にしている。 http://www.toraya-group.co.jp/products/popup/143154m.html では、上記のURLにあるお菓子はどうだろう。「雪の下萌」という菓子銘だ。左半分が雪を表し、右半分の緑が、雪の下から萌え出る草の新芽を表している。これは、『古今和歌集』巻十一恋歌一にある「春日野の雪間をわけて生(お)ひいでくる草のはつかに見えし君はも」(春日野の雪を押し分けて芽が出てくる草がちょっと見えるように、春日祭の物見車の簾の隙間から、ちらっと見たあなたですよ)という壬生忠岑の歌からつけられた菓子銘である。色合いが何ともいえず美しい。緑と白を組み合わせただけのお菓子が、この名前によって想像の翼を広げ、飛躍する。
もともとこのような和菓子は、茶道とともに発展を遂げた一面もある。つまり、茶請け菓子としての和菓子である。「とらや」の創業の時期、1500年代は、茶の湯が始まった時期とちょうど重なる。茶の湯では、季節感を大切にする。お客をもてなすにあたり、季節に合った花を飾り、季節に合った掛け軸を飾る。それが、相手を気遣うもてなしなのである。お茶の前にいただくお菓子にもその考え方が反映されたとしても不思議ではない。お菓子一つをもとに、季節を感じ、伝統的な美意識を改めて発見し、古人に思いを馳せる、それこそが客の五感に加え心も満足させる、亭主のもてなしだったのだろう。
以前、ある茶の湯の家元のお宅に、文学講義の講師として毎月通っていた時期がある。もちろん、毎回お菓子とお茶をご馳走になっていた。2月のある日のお菓子は、「菜の花」だった。黄色と緑のきんとんでできた生菓子である。私はこのお菓子が大好きで、ちょっとこの季節には早すぎるのでは、と思いつつ、ありがたくいただいた。次の月、なんとまた「菜の花」のお菓子が出た。ふつう、こういう茶の湯の家元のお宅では、和菓子を注文する和菓子屋が決まっていて、季節に合わせてお菓子をどんどん変えるのが当たり前だ。でもよく見ると、その「菜の花」は、先月と何か違っている。そうだ。先月は「菜の花」といいながら緑の部分が多かった。というより、黄色い部分がほとんどなかった。花が2分咲きといった体だ。それが今月は、黄色の部分がかなりを占めている。そのことに気付いたとき、和菓子屋の演出のあまりの心憎さに、心の中で「おお」とうなってしまった。
「菜の花」は、和歌ではほとんど詠まれていない。俳諧で与謝蕪村などによってその美しさを詠まれた花である。しかし、色の移ろいに注目してお菓子を演出したその和菓子屋の考え方は、まさに季節の移ろいを重視する古今集の季節観そのものである。
古今集はすごい歌集だ。日本人の季節観の原型がここにある。桜が散るのを見てはかなく感じたり、月を見て美しく思ったりするのは、単なる個人的な感じ方ではなく、日本人の伝統的な季節観によるものなのである。自然の移ろいに時間の移ろいを重ね、さらに人の心情の移ろいを重ねる。
和菓子の菓子銘は、その和歌の言葉の奥深さをうまく利用して、食べていただくお客へのもてなしの心を表している。和菓子を食べることは、いわば日本の文化を味わうことなのである。 October 14 関帝廟の夜に 最近、アクセス数がすごい勢いで伸びている。コメントの投稿は全くと言っていいほどないのに、一体誰が読んでいるのだろう。
先週は、教え子の何人かに教えたので、増えたのはわかる。でも、今週はそれ以上の伸びだ。なぜ・・・。
まあ、このところカミングアウト系の話が多い。あと、キーワードが多くなったのもよくない。国*交流*金の内部からのアクセスが多かった日があった。
つれづれなるままに。先週今週は、学校のタームの変わり目で少し時間的余裕ができ、職場を離れた友人に会う機会が多かった。1年に数回、阿佐ヶ谷で会う年下の友人S、日本語教師の友人でチームマダムの人たち(K先生宅でのホームパーティに呼ばれた)、中高通じての友人A山・I川両君、大学の恩師F先生、その他にもいろいろ会った。
BGMはspitzのニューアルバム「漣(さざなみ)」に変わった。スピッツらしいといえば、らしいタイトルだ。さざなみのように・・・。 October 08 邂逅2 (予めお断りしますが、これはあくまでフィクションです。私小説的ではありますが、そのまま私のことというわけではありません。)
金曜日、予定通り午後から休みを取って、講演会に出かけた。
学校を出るとき、先輩講師のI先生から、「なつかしい人に会えてうれしいね」と声をかけられた。
「でも、そうでもないんですよね。大学院をやめたとき、必ずしもいいやめ方とはいえなかったし。複雑な気分なんですよ」
「今の職業、自慢してくればいいんだよ。この仕事、楽しいことだけは自慢できるじゃん」
「う~ん、でも、たぶん自慢にならないんですよね・・・」「ふ~ん」
私が言いにくそうにしていたので、I先生はそれ以上何も言わなかった。私は大学院生たちが、大学院をやめた人たちをどう見るのかよく知っていた。自分が昔、あちら側にいたから。それは決して、そう見られて気持ちのいいものではなかった。
大学に通っていた頃と同じく、JRで池袋へ、そこで丸の内線に乗り換え、本郷3丁目の駅へ。その駅はモダンな作りに変わっていた。本郷通りと春日通りの交差点にある、「かねやす」を横目に、信号を渡った。そのとき、和菓子の三原堂の前を過ぎ、漱石の小説にも出てくる羊羹の「ふじむら」の看板を振り向いて確認した。歩きながら、いろいろなお店を確認していった。昔から変わらずある店もあり、新しく出来た店もあった。スタバは私がいた最後の頃にできた。老舗の洋菓子屋、近江屋は昔のたたずまいのまま。
あっという間に赤門にたどりついた。門をくぐってすぐ左に曲がる。いつものコースだ。そして、私が大学で1番長くいた、本郷の図書館前へ。この大図書館が私は大好きだった。4階に文学コーナーがあり、よくここの本を読んでいた。各学部や学科にも図書館があったが、私は大学院に進んでからも、この総合図書館の雰囲気が好きで、ここへよく来た。気分転換に、図書館前の噴水をよく眺めた。誰から聞いたのか忘れたが、たぶん国文科の近代文学のずっと前の教授、N山先生だと思う、その噴水の真ん中にある塔の形のものは、五重の塔の天辺にある、輪の形を重ねたものを模したものらしかった。噴水のマイナスイオンとこの噴水の宗教的な形にいやされつつ、噴水のそばの大きなクスノキの木陰で休んだものだった。
感傷に浸っている時間はない。講演開始は16:00で、すでに時計は15:30を回っていた。タイラー氏の講演は英語で行なわれるので、英語の不得手な私としては、早めに席を確保し、同時通訳ガイドを確保する必要があった。会場の定員は200人。タイラー氏の知名度と、会場の大きさを考えると、人があふれかえるのは容易に想像がついた。
階段を上っていると、古今和歌集研究の泰斗、K谷T彦先生がいらっしゃった。私は軽く会釈したが、10年以上前の授業にちょっと顔を出しただけの学生を覚えているはずもない。もう70に近いだろうか。学生時代の「そらまめ」のあだなのままのお顔に、つい笑ってしまう。受付に知っている顔はわずかだった。でも、みんな中古文学の後輩のはずだ。偉そうにしている2,3人のみ見覚えがあった。一応知っている人には、声をかけたりかけられたりした。
無事席を確保できた。あえて真ん中のほうに座った。そのほうが却って知り合いに会う確率が少ないと考えたのだ。うちの大学・研究室が主催なので、関係者はたぶん、遠慮がちに端のほうでたたずんでいるだろう、と。招待席には、国文学研究室のOBらしき大年寄りも何人かいた。顔を知っている先生は存外少なかった。
講演が始まった。司会はF原先生。私の大学院時代の最後の指導教官である。
この人はとてもやさしかった。彼が来たとき、私はすでにD3ぐらいで、前にいらした鈴木日出男先生の最後の弟子のような存在で、彼にしてみれば、相当やりにくかったと思う。和歌を中心に言葉の意味のニュアンスの違いなどを追究する私と、菅原道真などの漢詩・漢文に造詣が深く、その方面や政治的文脈から源氏物語を読み解く彼との間には、残念ながら深い溝があった。私は論文や研究がなかなか認められない苛立ちから、自分の方向を見失っていった・・・。
でも、よくよく考えれば、彼とは共通点もいろいろあったのに。詩というものを愛し、言葉を愛し、漢文を愛し。私は、研究対象にはしていなかったが、漢字や漢文は好きだった。中1の入学のとき、当時のK屋校長がみんなの前で説明した、広瀬淡窓の「偶成」を諳んじることができるのは、同期で私ぐらいだ。「道」を「イフ」と訓読することを、大学院の40過ぎの若手の先生に教えたこともある。(小さい自慢やなあ。)日本語学校に勤めてから、自分が漢字好きだったことを思い出した。漢字の教え方についていろいろ考えて発表したり、漢文についての本を読んだり。一体今まで、私は何をしていたのだろう。
彼の司会は、いつにもまして明快だった。彼の、ロイヤルタイラーの紹介の言葉の中に、間接話法・直接話法、という言葉が出てきた。何だか、先生が自分に語りかけているような気がした。これが、私の最後の研究テーマであり、また日本語教育への転身決心するきっかけとなったテーマだからだ。あの頃は、このようなテーマをあまり認めていなかったのに、今さらどうしたんだろう。私は彼の紹介の言葉を、最初はうそ臭く思った。でも、その話の明晰さに、ついつい引き込まれていった。源氏物語の原文の妙味の一つに、間接話法、直接話法、どちらともつかない自由直接話法(free direct discourse)や自由間接話法(free indirect discourse)というのがある。物語の語り手が、登場人物の言葉と地の文(=語り手の言葉)を明確に分けてしまわずに、登場人物に感情移入するときは自由に登場人物の言葉を出してきたりする、ということだ。これは、カギカッコが存在しない日本の古語独自の問題でもあるし、このような語り口を選択した作者紫式部の個性でもある。その話法までも忠実に再現しようとしたところに、タイラー訳の意義がある。そういう話だった。
でも、こういう話は、国文学の世界では、なかなか扱えない。というのは、基本的に国文学の解釈を考えるもとになっている国文法が、非常に古く、話法などの概念をあまり問題にしないため、このような問題を厳密に扱えないのである。私には、従来の文法にない、新しい文法の体系が必要に思えた。その理想の形に近いのが、対照言語学的な手法から導き出される文法であり、日本語教育の文法であった。
タイラー氏の英語はとても聞き取りやすかった。でも、私の英語力には不安なものがあったので、英語で出てきた言葉を何とか翻訳し、少し遅れてイヤホンから聞こえる日本語で確認していった。アーサーウェイリーの最初の源氏全訳が、英語文学として優れていた「transcreation」であること、それを当時の有名な文学者(ちょっと名前を失念した)の何人かが絶賛したこと、それが源氏の海外での評価の始まりであるが、そこから、NYtimesなどで、単なるplayboyの話だとの非難があったり、それをかの瀬戸内寂聴が後押しし、女性を女性とも思わぬ仕打ちを光源氏がしたのだ、と貶められたりしたらしい。そういう時代を経て、新しい訳が完成し、いろいろ苦労話を語っていた。なるべく原文の語り口を生かす工夫が随所にちりばめられている。登場人物の名前を、原文と同様、その巻巻での役職名で呼ぶ、和歌をなるべく歌のように訳し、57577のリズムになるようにも努め、必要なところは注釈をあとにつける、などだ。
コメンテーターとして、今年度できたばかりの「現代文芸論研究室」から、柴田元幸、沼野充義、テッドグーセンらが来ていた。なぜ国文科の教授はコメンテーターじゃなくて司会なのだろう。沼野さんが、なかなかいいコメントをしていた。源氏物語は、この3度の翻訳を経て、真の意味の世界文学となった。世界文学とは、その言語の1国のみで享受されるのではなく、翻訳によってそのよさが世界的に知られるようになったものをいう。そういう意味で、源氏物語は、タイプの違った3つの訳が出て、原文により近い形でワールドワイドな展開を見せていることは、作品として本当に幸せなことだ。英語圏で非常に高い評価、村上春樹、吉本ばなな以上の評価を受けることもある。しかし、翻訳がさなれていない国もまだまだある。国際交流基金の活動にもつながるが、日本語というものがもっと多くの国で学ばれ、さらに古典文学などの研究までできる人が出るような、日本語に堪能な人が生まれることになれば、また新たな翻訳が生まれるだろう、という話だった。日本語教育と源氏物語がつながり、私のするべきこともちょっと見えてきた気がした。有意義な時間だった。
講演中、F原先生が、こっちを凝視している瞬間が2度あった。ちょっと会釈しようかとも思ったが、実際には別の人をみていたのかもしれないし、講演の最中なので、やめておいた。さりげなく視線をはずした。でも、たぶん気付いている、と確信した。
案の定、彼は私に気付いていた。昔と変わらぬやさしさで接してくれた。彼は私を、講演後のレセプションに熱心に誘ったが、私はその好意のみありがたく頂戴した。私も話したいことは山のようにあった。しかし今日はこういう席だ。私と話す時間は、実際にはほとんどないだろう。
帰りに、ルオーという有名なカレー屋で、なつかしいカレーを食べた。この味は変わらない。肉の味をかみしめながら、今日の感動を胸の奥の引き出しに、ゆっくりしまいこんだ。(了)
October 06 邂逅―源氏、本郷、自己、過去 「Sくん!」
なつかしい、気持ちのこもったF原先生の声が、私の耳と法文2号館1番大教室に軽く響いた。
「君の姿を聴衆の中に見つけてびっくりしたよ。」「ええ、やはりそうでしたか。先生がこちらをじっとご覧になっているのが何度かございましたね。気付いてくださってありがとうございます。先生、相変わらずお元気そうで、安心しました」「ああ、君時間ある?これから講演者のタイラー先生を交えて懇親会があるからいらっしゃい。忙しいの?」「いいえ、先生、今日は・・・」「ああ、○○さん」
司会者を務めた私の大学院の恩師、F教授は次のお客の相手のため、私の返事を聞かずにその場を離れた。しかし、私は満足だった。先生に挨拶できた。先生は以前と変わらず私を忘れず、私に接してくださった。それで十分だ。
今日は午後から仕事を休み、ロイヤル・タイラー教授の講演会に出かけた。場所はT大学本郷キャンバス。
今週の水曜、国際交流基金のメルマガでその開催をしり、急に思い立った。ロイヤル・タイラー氏は、アーサー・ウェイリー、先日逝去されたサイデンステッカーに続き、第三の源氏翻訳を完成させたことで有名な研究者だ。その翻訳が完成した2001年ごろ、私は大学院で源氏を研究していた。そのテーマは、源氏物語の中で、和歌をどう語るか、というものだった。ふつうは、歌というのは、ある種人物の台詞と一緒だから、たとえば、光源氏は、「~」という歌を詠んだ、というふうに語るのだが、ときどき、歌の前後に「誰々が詠んだ」というのが明記されず本当に登場人物の歌なのかよく分からなかったり、「『この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日』がまた今年もめぐってきた」というような感じで、歌が物語の部分と自然につながることもあったりする。どうしてその場面だけそうなるのか、その場面にどんなドラマがあるのか、そういうことを考えていた。
タイラーの訳は、その私の考えにヒントを与えるものだった。彼の訳のこだわりの一つに、「話法」というものがある。英語で、直接話法と間接話法の書き換えをしたことがないだろうか。カギカッコで台詞がはっきりわかるものが直接話法、カギカッコがなくて台詞が文を書いた人によって要約されているのが間接話法だ。彼はなるべく原文の話法に忠実に翻訳を行なっている。これによって、原文のニュアンスを出そうとしているのだ。これは大変な労力である。
これ以上詳しい話はしないが、私はこのタイラー訳に出会ったことで、翻訳の面白さ、日本語の新しい見方に気付いた。私が日本語教育の世界に入ったきっかけともいえる。その人の講演会がある!
その講演会が本郷で行なわれることも、参加を決めた大きな理由の一つだ。ここで行かないと、二度と先生たちに会えない気がした。日本語教育の世界に入って3年。それ以前から先生方にお会いしていない。大学院の後輩たちにも一部しか会っていない。恩師は司会を務める。いい機会だと思った。
水曜の夜、偶然にも理事長から、国際交流基金の授賞式に名代で参加しなさい、と言われた。理事長としては、その授賞式のあとのレセプションで豪華な食事ができるから、最近いくつか重要な仕事を担当した私へのごほうびのつもりだったようだ。でも、私には、単なるごちそう以上に、受賞者の声が聞けることがうれしかった。仕事で授賞式は間に合わず、レセプションからの参加だった。ごちそうは食べたが、式でのスピーチは聞けなかった。受賞者の一人、西洋人として初めての日本語作家、リービ英雄の日本語を間近に聞けたことだけが大きな収穫だった。2日後の、T大学と国際交流基金との共催の講演会の司会者も来ていないかと、ちょっと期待していたが、探せど探せど彼はいなかった。
(つづく) October 04 百壺庵先生 百壺庵(ひゃっこあん)先生
先月の中旬、先生の葬儀に参加できなくてすみませんでした。
先生が亡くなったことを、2週間も後になって知るなんて、相変わらずだめな生徒です。
昨日、高校時代の文芸部仲間のAから電話があり、そこで始めて知りました。ネットで先生の名前と訃報欄を検索し、その情報が事実だと分かりました。今日は、地元にいる弟にも確認を取りました。
5,6年ぶりに文芸部が烽火を上げたと知り、いちはやく連句会に誘って下さったのは先生でしたね。われわれは、歴史の先生としてしか知らなかった先生が、百壺庵という号を持ち、連句という、当時のわれわれにとっては未知の文芸にいざなって下さいました。もともと短歌や詩が好きだった私は、一気にその世界に魅了されました。最初に巻いた連句、今でも覚えています。「脇起(わきおこり)」という特殊なスタートでしたよね。
あらたふと 青葉若葉の 日の光 翁
あせをふきふきのぼる杣道 百壺庵
白帆航く 海原はるかながめいて わたし
つづきはこちら http://homepage1.nifty.com/nagisa-withT/renku/index.htm
芭蕉の句からの格調高いスタート、でも、そこは高校生、たいした発想もなく、先生にいろいろ添削されながら、どうにか続けて、36句、歌仙を巻き終えました。その間には、若さゆえの傲慢さから、さばきである先生に、いろいろ生意気な口をききましたね。あの口の立つわがままな僕らを、よくまとめ上げたものです。
今回、先生の訃報を探していたとき、あるブログに、次のような内容のことがのっていました。先生が、松山の湯月城址保存会をたちあげ、いろいろな考え方、右派から左派までの市民をまとめて、その保存に尽力した、先生なしには保存会はありえなかった、と。
私はその後、大学に入り、目標もなくぷらぷらしていたとき、松山で先生のお宅におしかけ、母校の高校の先生何人かも交え、ごちそうになりながら連句を作りました。私は高校時代やそのときの連句体験が忘れられず、大学院へ行き、連句を広めたい、と決意、連句の実作の先生も紹介していただきました。よく考えたら、私の人生で、先生ほど大きな影響を与えた人はいないかも知れません。大学院の鈴木日出男先生とともに、私の運命を大きく変えた人だと思います。
中学のときの、先生の歴史の授業、今でもよく覚えています。古代だけで、2,3ヶ月かけていましたよね。邪馬台国の北九州説を熱く語っていました。それと、奈良時代の班田収授の田んぼの大きさとその税を計算させましたよね。そうか、奈良時代の農民はこんなに貧しいのか、だから万葉集の「貧窮問答歌」(山上憶良)のような歌ができたのか、とすごく納得しました。結局1年で現代にたどりつかず、先生のご専門だった明治時代も、駆け足だったのは残念です。先生の授業で一番印象に残っているのは、何と言っても最初の授業で、「歴史を学ぶことの意義は、民主主義の大切さを学ぶことだ」と言い切ったことです。あとで考えたら、あまりに思想的なものを言いすぎているんじゃないの、偏りすぎじゃないの、と思ったのですが、当時の純朴なわたしにとっては、歴史の意味とか、平等な社会への希求などを真剣に考えることが、とても新鮮でした。
文芸部仲間のIとも連絡をとって、先生を偲びたいと思います。先生、今まで本当にありがとうございました。
先生の教えや生き方に恥じない人生を、ささやかながら送りたいと思います。
October 01 すべての終わり 今日、うちの各校舎の先生がすべて集合する合同勉強会が終わった。
私はその会の発表者を担当していた。テーマは「日本語教育スタンダード」。これを書くと、このブログのアクセスが増えて危険なのだろうな。このブログはそのうち一部カットします。
私は、日○協の外部研修に何度か参加して、そのたびにこのテーマのことを聞かされ、このテーマの重要性を早く知らせたくてならなかった。そういう意味では、今回発表の機会を与えられたことは、とてもありがたかった。でも、企画書段階では、公開講座で扱うことや、専任でのミニ勉強会を重ねて少しずつ広めていくことを提案していたので、自分が発表するなんて夢にも思っていなかった。
この時期にこのような報告会ができたのはいいことだ。こんなことをしているのは、日本語学校の中でもわずかしかないだろう。この、スタンダードの考え方は、長い時間をかけて浸透させていかなければならない。うちの学校で他に先んじてスタートを切れたのは、必ず学校にとって、そして一人一人の教師にとって、大きな財産となるだろう。来年ももう一度、公開講座のような形で大きなしかけをできれば、と思っている。CEFRとの関係も徐々に明らかになっていくはずだから、その一部をうちから発信できれば面白いのだが。
何だかほんとに日記になってしまっている。このところ、プレッシャーの大きい仕事が続いた。9月中旬の、町田健先生を迎えての公開講座シンポジウム、そしてこの勉強・報告会。すべてが終わって、今、体が溶けている。
実は昨夜、ほとんど寝られなかった。自分でもびっくりした。まあ、この勉強会の件とは別に、あるショッキングなことがあって、落ち込んでいたというのもあるのだが、それにしても、寝られないほどのプレッシャーが自分にかかるなんて思わなかった。逃げ出す自分を想像したり、自分がいなくて困っている会場を想像したり、そのあと、逃げる場所を考えたり・・・。
教師養成の受講生も、9月修了を迎えた。私が実習を担当したあるクラスでは、不覚にも涙を流してしまった。受講生との別れの寂しさだけでなく、実習での自分の未熟さ、終わったことの安堵、未熟な自分への悔しさ、などなど、みんなに言えないいろいろな気持ちが入り混じっていた。帰りの電車や駅から家までの道のりでも、みっともないことに泣いてしまった。頬を伝う涙の温度を感じた。涙って、こんなに温かかったのか。年甲斐もなくここまで泣ける自分がすごいと思う。
カラオケで「ずるい女」「あずさ2号」を歌ったり、女性のやさしさをときに鬱陶しくときにいとおしく感じたり、心が波打つ1週間だった。
さあ、今月からどんな新しい世界を拓いていけばいいのかしら。終わりの重さに、動けないでいる。 |
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